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  • 南三陸町から

    2012年7月10日(火曜日)

    テーマ:南三陸町から

    今回は、今年3月まで新古賀病院の院長を勤めていた
    福山尚哉先生の、南三陸町の現状レポートをご紹介します。

    福山先生は現在、宮城県南三陸町の公立志津川病院で
    病棟担当医をしていらっしゃっいます。
    南三陸町は、昨年3月11日の東日本大震災で壊滅的な被害を受けた町です。

    現在、同町にある医療機関は、
    公立志津川病院の仮設診療所ともう一つの診療所だけで、
    患者さんの数に比べて医師の数が絶対的に不足していて、
    今年3月には、年度替わりを前に短期支援のボランティア医師も
    少なくなってしまい、現地では長期滞在支援の医師を
    切望していたそうです。

    福山先生はこうした現地の実情を知って、
    今年4月から公立志津川病院に赴任されました。

    南三陸町の今を綴った、福山先生のレポートをお読みください。

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    宮城県の震災被災地、南三陸町の志津川病院に赴任して三ヶ月が経ちました。

    南三陸町では一万七千人の住民の七割が震災と津波の被害に遭いました。
    平成24年6月現在、約6千人が近隣の仮設住宅に住み、
    3千人ほどが宮城県内の「みなし仮設」に住んでいます。

    病院はこの4月、
    イスラエル医療団が残していったプレハブの仮設診療所から移転し、
    同じ敷地内に町役場と並んで公立南三陸診療所を開設することができました。


    公立南三陸診療所


    二階建てモルタルですが、内科3診と小児科、外科、整形外科、眼科、
    耳鼻科、泌尿器科、皮膚科、歯科と9つの診療科の診察室がそろいました。
    トイレも水洗となり、水道、ガスも自由に使えます。
    もちろん冷暖房も完備です。


    診療の対象となる患者さんのほとんどが仮設住宅の住民です。
    この時期になると震災の直接の影響は少なく、
    一般的な呼吸器疾患や消化器疾患、
    それに高血圧・高脂血症・糖尿病など成人病が多く、
    通常の病院外来と変わりません。

    6軒あった同じ町の開業医も皆被災しましたので、
    町の唯一の診療所になった志津川病院
    に一日二百人近い外来患者が来院します。
    迎える医師は私を入れて6人。
    あとは皆東北大学などからの支援の医師たちです。


    入院施設は昨年の6月から、
    隣の登米市の米山病院の39床を借りて運用中です。
    隣といっても約30Km離れておりますので、
    6人の医師たちで交互に診療所と病院を行き来するのが大変です。
    当直も二箇所で2人必要です。
    東北大学のほか山形大学、弘前大学、札幌医大や、
    旭川医大など近隣の大学から
    1~2週間ずつ支援の医師たちが来てくれますので、
    何とかやりくりしている状態です。

    重症の患者さんや手術の必要な患者さんは石巻日赤や
    気仙沼市立病院、または仙台まで送ります。
    気仙沼まで35Km、石巻まで40Km、仙台までは90Kmです。
    気仙沼や石巻も同じ被災地ですので、
    時には療養型の患者さんが向こうから送られてきます。


    病院のスタッフも事務職や技師、看護師、看護助手を含め、
    ほとんど皆被災者です。
    震災当日の話がでたりすると皆涙ぐんでしまい、
    あまり詳しいことは聞けません。
    でも年配のスタッフや内科の菅野医師の手記などを参考に再現してみると、

     「3月11日(金)の午後は急患も無く
      比較的みなゆったりしていたときにいきなり地震が来た。
      午後2時46分、大きなたて揺れの後横揺れが続いた。
      地震直後に院内を見回った職員によれば、
      地震による被害はほとんど無かった。

      5階建て病棟の3、4階にいる入院患者にもほとんどけが人は無かった。
      当時140床の病院に107人の入院患者がいた。
      高齢者が多く大半は動けない人たちである。
      地震直後には停電となり、エレベーターも動かなかった。
      そして数分後には町内の防災センターから大津波警報が放送され始めた。

      過去のチリ地震で3mの津波を経験した志津川病院では、
      倍の6mの津波に備えた訓練をつんでおり、
      3階以上の病棟は安全であろうとの判断であった。
      1階2階にいた外来患者や外部から避難してきた人たちを
      5階の会議室へ誘導した。

      ある医師は2階の医局まで荷物をとりに行った。
      そして上階へ上ろうとしたときに
      海岸から押し寄せる真っ黒な波が見えた。

      午後3時28分ごろには一気に波が押し寄せ、
      病院内にも入り込んできた。
      足元から押し寄せる波に追われながら5階に到達した頃には、
      すでに4階の病室まで波に飲まれていた。

      107人の入院患者のうち72人と病院のスタッフ3名が
      波にさらわれ行方不明となった。
      救出できた患者42人とスタッフ76人および
      周辺からの避難者を交え250名ほどが5階の会議室に集まり、
      水も食料もないなか、寒さに震えながら一晩を過ごした。

      スタッフは看護部長らのリードでペンライトをかざしながら
      生き残った患者の面倒を見た。
      津波をかぶった患者のうち7名が翌日までに息を引き取った。
      スタッフのほとんどが死の恐怖と無力感に襲われたという」





    いま志津川病院では、77名の正規の職員と15名の臨時の職員が、
    南三陸町と登米市の米山町に分かれて働いています。
    普段は被災者とは思えないほど明るく、元気です。
    自分たちでも一年前にあんなひどい目に遭ったとは思えない…
    というくらいに回復しているように見えます。
    ただほとんど毎週余震があり、揺れが始まると皆すばやく反応しますので、
    やはり心の回復はまだまだだと感じます。


    志津川病院の被災病棟の取り壊しが始まりました。
    2015年には高台に新病院が建設される予定です。

    町に唯一つの病院は町の人々のよりどころです。
    滞りなく運営していくためにはまだまだ全国からの支援が必要です。
    是非一度廃墟となった街を訪ねてください。

    ほぼ毎日観光客と思しき人たちが訪ねてきているようですが、
    廃墟に立ちすくんで呆然としている人たちも見かけます。
    福岡から修猷館高校の生徒たち、そして最近ではアメリカの高校生たちも
    南三陸町の廃墟を訪ね、それぞれ思いがけない光景に
    ショックを受けたようです。

    少しでも多くの人々のシンパシーに期待します。


     南三陸町の町長室で  福山先生は右から2番目


    <参考図書> 菅野 武著:寄り添い支える -公立志津川病院若き内科医の3・11 河北選書 2011


    (公立志津川病院 福山尚哉)